先日、新潟県十日町市の博物館を訪れた。この博物館には、国宝の火焔型土器の常設展示があり、土器の複製も手で触れられる。火焔型土器といえば、縄文土器の代表例として小中学生の教科書に載っている。義務教育を受けた人であれば、一度は目にしたことがあると思われる。
わたしは両親がこの十日町市の出身で、へぎそば、織物やテキスタイルデザイン、豪雪と並んで十日町の名所名物として教わり、馴染み深い。小さな町であるが、個性がはっきりした特徴のある街だと思う。
地元の人には常識であるが、この火焔型土器には、謎がある。火焔と名付けられているゆえんは、教科書的にはこの器の上縁部の「装飾」が火炎のような形にみえるところから付いたとされる。岡本太郎が驚いたという話は有名である。この装飾的デザインが、なぜこのような形であるか、というのが、地元では謎として知られている。確かに、教科書にもコラム欄などで、なぜこの形なのか、なんのために、また、なにに使われたのか、考えてみよう。と書かれた本もある。
わたしは、十日町市博物館で複製を触れてみて、わかったことや考えたことがあるので、以下考察を述べていく。
まず、突起状のとげは、必ず4つある。つまり、みねが4つ、たにが5つある。これは、どの火焔型土器でも同じで、6つだったり3つだったりすることはない。ここで気づくと思うが、手ではないか、ということだ。手は5指である。実際、現代の研究で、このとさかは、棒状の粘土を指で握って造形したことが推定されている。このとさかは、人が指で握って作ったのだ。実際、複製に触れると、大人の指がちょうど、たににはまる。では、なぜ指で握ってとげを作ったのか。そして、なぜこの位置に作ったのか。ここで、複製に触れて自然と、ある仮説が浮かんだ。取っ手であろうと。
土器上部の横置S字状のとげは、手のひらで握ると、ちょうどグリップよく握りやすい形状なのである。そして、土器縁に施されたとげも、縁をどこでもしっかりグリップできるよう、たにが4つか5つで作られている。わたしはこれには感動した。取っ手か!と。ではどのように持つかであるが、上部の横S字のほうは、土器を下から上に向かって抱え上げるのだから、土器を頭にのせて、ちょうど南アジアの市場でのように、頭にのせたまま両手で取っ手にグリップしたまま歩いて運べる。また、縁のとげは、土器を肩にのせるくらいでちょうどよい丈なので、片肩にのせて片手でグリップして担げる。重い時は頭に、軽い時は肩にのせて、グリップして運べる取っ手である。肌が触れる面として考えれば、縄文様模様があると、仮に水分があっても、肌が滑らず持ち運べる。
それでは、とげ以外の、上にせり出している部分は、どうやって持つのか。実際、複製に触れて数分間試行錯誤したところ、なんと、手が横ですっと入るのである。大人の手が、この耳のような取っ手の穴にすっと入り、それ以外の用途がないかのように、ぴったりはまるのである。ただ、この4つある耳のような取っ手は、右手しか入らない。ひとりが両手で抱えるためのものでない。2人で向かい合って抱えるための取っ手なのだろう、両者が、右手は耳に手を入れ、左手は親指を器縁下の方にある丸い小さな穴に入れ、2人で向き合って抱え運べる。いわゆるハート状の穴は、通気性を確保でき、長く運んでも手が蒸すことはないであろう。
なお、ひとりで両手で抱えたいときは、中央の縄紋部を手のひらで支えつつ、その器縁下方の丸い小さな穴に両親指を入れて抱え運べる。この穴には、綱のような紐状のものを通すこともできたであろう。これは王冠型土器にもあるデザインだ。
王冠型土器は、この火焔状の意匠が見られないが、これは単にスタッキングするための意匠であろうと思う。火焔型では、運びやすいが、スタッキング不可であろう。王冠型は、重いものを運ぶには適さないが、家の中などでスタックして、場所を省いて重ねて保管しておける。確かに、王冠型の4つの手の上は平たくしてあるし、4つの手は、同じ形の土器の膨れた上半分を4点で重ね支えるにちょうどいい位置で作られている。5器くらいは重ねられるだろうか。王冠型土器を運ぶときは、小さな丸い穴に指を通してひとりで抱えられる。
要するに、この装飾を取っ手として使われたと考えると、これは装飾でなく、完全に実用的な形態意匠であり、しかも、複数の用途を同一形態によって賄う、優れた形態的発明だといえる。さらに、岡本太郎が驚くほどに、炎の形のような装飾性も備えた、機能性と芸術性を兼ね備えたデザインであるといえる。
では、なぜこのように複数の運搬方法を想定したのか。また、器の縁をつかめばいいものを、なぜ器の上部に取っ手をつけたのか。以降は、想像による仮説にすぎない。
この火焔型土器、および王冠型土器は、信濃川流域の遺跡から見つかっており、今のところ、山間部ではない。信濃川は水がきれいであり、魚沼地域の米やそばや寒天など、食を今も支えている。縄文人も、信濃川の水を飲食用にしていたことは自然な考えである。水を運ぶには、流れのある川で汲んで、住居まで運ばなくてはならない。1人または2人で川に入って流れに対するか、綱や太い紐のようなもので括って汲み、それを引き上げたと考えられる。この土器は、これらの用途には適しており、特に火焔型では、重い水を頭にのせて、あるいは2人で抱えて、液体を安定して運ぶためのグリップがある。おそらく、王冠型は川の近くの集落で、火焔型は川から少し離れた集落で、水を汲み運ぶために使われたと考えられる。
また、すでに採掘分析されているように、土器の内縁におこげが付いている状態で見つかったとおり、この土器は火にかけられて使われた。水を沸かすほか、煮たり炊いたりしたと思われる。特に、縄文中後期に朝鮮から輸入ないし渡来した米を、土器で炊くことにも使われたと思われる。この下部が窄まり、上部に開く容器の形状は、米を入れる線や、水を入れる目安線であったかもしれない。実際、この形状で炊いてみると、新潟米らしい味で炊けるのかもしれない。
最後に、気候、特に雪に関して付け加えたい。当時がどれほどの積雪だったか詳しくないが、家の中でも、軒下などにある程度雪が積もっていたと考えられる。この下が窄まったデザインは、積もった雪に差して固定し、下半分に保存したい農産物やたんぱく源を入れ、上半分に雪を積もらせて、冬に冷蔵して保存していたことも考えられる。つまり、冷蔵庫である。そうすれば、取っ手が上についているので、握って上から引っ張り上げて出すことができる。
また、祭祀に使われたと教科書にあるが、運ぶ最中であっても器に入れた食物に手が触れないように取っ手を上につけたと考えると、神に供捧する食物に人の手が触れることを忌む文化があった可能性もある。清流に白雪である、清いもの澄んだものにまつわる感性が育っていたと考えても不思議ではない。神に供える食物をあらかじめ取り分け、保存していたのかもしれない。
このように、取っ手だけでなく、器の形状も、完全に合理的な形態であり、その用途は実に多機能で、それらの用途の使い分けをすべて満たす意匠が、この火焔型および王冠型土器である、といえる。
十日町は、小千谷など江戸から昭和にかけて織物で有名な周辺地域の中でも、テキスタイルデザインの多様性が優れていたと評価され、今も街の土産物には現代的で個性的なデザインが施されている。越後妻有で大地の芸術祭が毎年数か月間にわたり開催されているので、ぜひ一度お越しください。また、十日町市博物館で火焔型土器の複製を触れるので、実際に手指を入れてみてください、フィットして驚けます。
(wrote: 2024/09/12)