数理創造論

この永遠の沈黙と畏怖とが、わたしたちを定義する。

チャールズ・サンダース・パースの「概念を明晰にする方法」は、その概念が成立した起源にさかのぼり、現実のなかにとらえられる概念の普及のしかたに潜むねじれをただすために発案された格率である。記号が表す現実と記号が意味する効能を直接接続することで、記号を用いる効力とあらわれた記号の効力を最大化した。記号の基本的な存在理由である名前と、名前があふれる空間において記号からあふれつつある意識と意味の流動が、絶えざる流れから停止する空間に移行するとき、記号の牢獄にとらえられた気がしないでもない。記号論理に従って世界が総括され、それらが自己をも他をも従わせるとき、既存の記号の新たな用法によって、記号の集合からあふれ出る論理を見出すことができる。

しかし、記号が表現しうる新たな論理は自然のなかにこれ以上存在しているのだろうか。計算機が指定する定められた文字の集合に、いくらかの記号を新たに含めるとする。既存の記号がn個あるとすると、ひとつの新たな記号に対し、二文字の記号が2n+1個つくれる。つくった記号を検索機関にかけて打ちあがる頁はまだ少ない。こうして普及していない記号に情報的熱がこもり、その記号をかぎとする空間を構成することに価値が見出される。誰でも接近できるようで誰かしか知らない。ひとたび少数の者にかぎが発見され頁の集合を閲覧されるやいなや、頁に対し購入も評価もしない誰かがひそかに複製し保存する。その誰かは単純な論理が複製以上の効果を挙げているだろうかと思案する。思案してみたところで確認できるものではないので行動に移してみる。街を歩いて行き交う人々の動きを観察してみたり情報媒体を総覧してみて、世論の風向きの圧力に、記した内容に伴っているように見える肌身の変化が見いだされるとき、記号空間をこしらえた価値を勝手に認めて安心する。そうして確認できるものではない心証を無理に確認することにしておく。単純で素朴な論理が晦渋な専門領域を融けあわせることが起こりうる。

起こりうるのだから誰かによって完全に発見され尽くされるまで、発見者は概念に力学をこめることができる。概念を書き回す目的には少なからず、古いことを新しいものとして代謝させることが含まれている。古いものを新しい概念によって排泄し、前の時代に混迷していた誰も知らない些細な疑問を調理することで、明晰然としていた認識に視野を増させる常識を加える。なるほどこうした論理が未知の世界を容易に理解させるものと読者は知り、事象がより明らかになることの意味を少しばかり考える。最初に説明した人は偉大だが、説明可能な領域が広がると安心するだろう、けれども息が詰まらなくなるだろう。自然を説明する概念の発明は、工学的発明と大差なく人々の生活を変える。技術が過剰に人間を蝕むとき、人間の認識のほうを概念の発明によって変えてしまえば人間は存続するだろう。

植物の形態にとって本質的なのは分枝である。植物の構造は分枝の繰り返しである。ちょうど記号空間はいたるところ記号の反復であるように。記号空間には新たな記号が待望され続けるわけだから、植物の形態においては新たな個所から新たな分枝が出芽することが待ちわびられている。「このもう少し上のこの点から芽が生えてくれたら、この植物は美しい枝体をもつだろうに。」人間の介入によって分枝する点に希望通りの発芽を期待することができる。そのとき植物の成長に分枝を期待させる物質ないし光は、その輸送される経路の長さに依存して効果を表す。長さを決める変数は光を浴びる量で決まり、そしてその総量は光が射す角度に依存し、云々。といったふうに数式を運用し、人工装置を設計する。物理的刺激という概念に生命の神秘が露出しているのは、分枝する管を流れる分子の集合である植物に多くの詩的想念を抱かせる点にある。生命の神秘にまつわるいくつかの概念を用いるとき、そのうちの多くが人間の内部に神秘を感じられることを前提としている。人間は内面の神秘を外部の同類種に投影するものだから、その種も同様に神秘を宿しているものだと明証的に思える。余りの明らかさから植物も同様に感じているものだと投影するわたしたちの純朴さを疑いにかけてきた人間は少ない。パースは格率に従い神秘的な概念をどれほど明瞭にしただろうか。

連続性を生命のそれと見たとき明瞭になる概念には、時間がまつわる。個体の誕生と死、種の起源と存続、神の采配と保持にとって、未来とは存在が高い確率で確定したときに信じられる存続への希望であり、いずれは死ぬことが避けられない諦念である。しかし未来への希望にも死への諦念にも、存続時間を延長する工夫を細やかにかけることができる。運動、栄養、学習といった日常的なことから、手術、修繕、服薬といった個体的なことが挙げられる。人間が個体であることから、工夫は個体へ向けられることを免れ得ないけれども、個体に施される工夫を記号空間に放出することで共有することができる。個体化され、せいぜい第二人称化で止まる物質的人生を、記号は共有を通して第三人称化する。複数人称化した個体の存続が目的となるとき、または、記号の存続が目的になるとき、連続性は保たれる。記号以上に個体である内面の保持は第一人称を中心とする空間で住まうことを余儀なくされるけれども、個体以上に記号である外部と接続した内部は、第一人称を含めた生命的記号を包含して第三人称の認識を促す。これこれの遺伝子がこの細胞で発現していることはわたしと共通している。わたしは発現現象を共有している。わたしはこの店舗のこの広告が分泌の引き金となった。すぐ隣で広告を見止めた通行人と同じような分泌体験をした。第三人称的存在の内部把握は、第一人称的内部と同様であろう。理解可能であることを保証するだろう。分泌の履歴が残存した身体とは、いまここにある身体なのだから。

記述が投射する記号空間は内面を優先することを保留し、外的存在への表面的視覚を、分子的な視覚の加算によって類義的存在に変更する。わたしの分子はこれこれのふるまいをする。それはなぜかはわかりきれない。いつも不思議なふるまいをする。根源的に、わたしはなぜ動くのだろう。わたし自身も分子の動きは神秘であると思っている。このように類義化した外的存在は、次第に数学的概念といやおうなしに結び付く。空の大きさと空を舞う分子の小ささ。光の粒としての量と波としての長さ。風が起こる気圧の差、雨が降る空気の温度。それらは強さや性質を表す量的概念の把握にとどまらず、それら概念どうしの演算知識へと変換される。力とは質量を加速度で積算した概念でもあり、ポテンシャルエネルギーを高さで割ったものでもある。こうして数学的に把握可能になった概念は、代数的操作や解析的操作だけでなく、幾何学的な操作にも堪えるものとなる。まだこの世界に存在しない創造物を想像することができるようになる。こうした均質的な数学的操作を装飾するために、自然の造形やそれを記述する最新の数理をとりいれて操作を続行することもできる。数理の創造はこの装飾的操作によって生まれる。

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